幼少期
1978年6月10日京都市生まれ。映画村と広隆寺で知られる太秦で育ちました。見た目も中身も今とほとんど変わらず、「じゅんちゃんはいつも笑ってるね」と言われるように明るく、男の子とケンカをする程に勝気な女の子でした。
また、幼い頃から、とにかく”文字”や”言葉”に興味があり、読書好きはもちろんのこと、「祇園精舎」や「寿限無」、「外郎売り」などを暗誦するのが趣味という変わった子供でもありました。
学生時代
「女に学がつけば生意気になる。経済的に自立すると何かあった時に離婚の選択肢も生まれてしまうから、無学なまま男性に頼って生きていくほうが結局は幸せ」と祖父母に言われるような封建的な家系でしたが、そこへの反骨精神から中学受験を決意。
その後、同志社女子中学、そして同志社女子高等学校に進みました。世話焼きなところも今と変わらず、中高6年間は、学級委員長や生徒会などを務めました。
みんなでアツく燃えた合唱コンクール、博士役を演じたページェント…京都御苑の隣にある学校で、友達と笑い転げた毎日は、今でも大切な宝物です。
そして、同志社大学文学部英文学科に進学。アメリカ文学を専攻しました。カナダ・バンクーバーへ短期留学した時にロッキー山脈に登ってその雄大さに度肝を抜かれ、その後、趣味で始めたパラグライダーで、これまた雄大な景色に圧倒されたことで、小さなことでクヨクヨしない今の性格が培われたように思います。
好奇心旺盛な性格を活かすべく、大学に通いながら、アナウンススクール《生田教室》にダブルスクール。故・生田博巳先生は非常に厳しく、帰り道で泣くこともしばしば。しかし、愛情に裏打ちされた厳しさで、ここでも大きく成長させて頂きました。
アナウンサーとして
卒業後は、NHK松山放送局に入社。アナウンサーとしてニュースやリポートを担当しました。もともと緊張しやすい性格のため、初鳴き(初めて声を電波に乗せること)の生中継は伝説になるほど噛みに噛んで、散々たるものでした。
デジタル化を控え、人も経費も不足する中、”なんでも屋”となり、仕事の大半は取材や編集など、アナウンスメント以外の業務を担いました。中でも取材先との対話には最も時間を費やし、多くの声を聞いてきました。しかし放送されるのはもちろんごく一部、そして最後は「なんとかせねばなりません」、「みなさんはどうお考えでしょうか」など、問題提起で〆られます。もちろん問題提起によって世論へ問いかけることにこそ意義があると、当時は考えていましたが、同時に、直接的な解決ができない歯痒さの様なものも感じていました。今思えば、これが政治を志す芽のようなものになったと思います。
母として
大学の先輩である夫との結婚を機に退職。2009年3月に娘が生まれました。3600gと大きい赤ちゃんで、3日がかりの超難産でした。最後、1分半間隔の陣痛が9時間続いた時は生き地獄だと思いましたが、赤ちゃんを胸に抱いたら、一転、天国に変わるのですから、子どもとは不思議なものです。
若い時は行政と関わることが少なくても、妊娠・出産で届け出や様々なサービスを受けることが増え、急に行政が近くなる、というのは多くの人に共通する経験だと思います。私も「公民館に授乳室があったらいいのに」「一時保育は予約が取りにくいな」など、育児支援への改善点を感じることが増え、ママ友たちと話すうちに、この声を市政に届けようと一念発起。長女が1歳の時に市議会議員選挙に出馬しました。
当選させて頂いて以降、みなさんの意見から問題の核を抽出し、ひたすら行政へと伝え続けています。
市議として
初当選から4年目に第二子を出産。市議会において現職議員の出産は初めてのことでした。産休・育休などの制度はありません。産後に議会を休んだところ、様々な批判もありました。この街に残る旧来型の価値観から来る言動に何度も傷つきました。これは日本に長い間はびこってきた価値観でもあります。
私が政治に携わっていたこの12年間、日本において“女性の生き辛さ”が顕在化し、社会の仕組みや価値観は大きく変わったと思います。しかしまだまだ過渡期。女性だけに限らず様々な形で生きづらさを感じている人のために、制度を確立させ、同時に社会の意識も変えて、「どんな道を選択しても自分らしく生きられる社会を実現すること」、これが私のライフワークです。
議員として働く中で、皆さんから寄せられる悩みを解決できた時、万感の思いが込められた「ありがとう」の声をかけられたことが幾度かありました。
あの「ありがとう」には中毒性があります。
綺麗な言葉で言うのなら「みなさんの幸せのために働きたい、私を頼ってくれた方の悩みを解消してあげたい」という気持ちですが、それは一方で、他では得られないやりがいや生きがいを感じたいという私自身のためでもあります。あの「ありがとう」のためなら人生を賭す価値がある、そんな仕事だと思っています。
衆議院支部長として
前段のようなやりがいを感じつつ、だからこそ「それは基礎自治体ではどうしようもない」という相談を受けた時は申し訳なさと不甲斐なさを感じ続けていました。
そんな時にいまの国民民主党が出来ました。政策提案型の改革中道政党、人への投資、その根拠となる積極財政への転換、“対決より解決”という柔軟な政治姿勢、打ち出す全てが私の理想と合致していました。ご承知の通り衆院選の当選確率は政党規模や政党支持率と相関関係にある中、小さな政党からの出馬には覚悟が必要でした。しかし、自分が人生を賭けて戦うなら、選挙での有利不利ではなく、自分に嘘をつくことなく活動できる潔さの方を私は選びました。
支部長就任から4ヶ月で突然の補欠選挙。政治とカネの問題による辞職を受けてのものでした。当選することは出来ませんでしたが、党の政策と自身の思いを存分に訴え血が出るほどの爪痕を残したと思っています。まだまだここから。
ここれからも、市川・浦安をスニーカーの底に穴があくまで歩き、皆さんの声をきき、千葉5区から“まだそこにない新しい答え”を作り続けます。
ここまでが私の半生です。この先も私の政治家としての想い綴れるように、どうぞ、皆様のお力をお貸しください。